舎路(シアトル)日記

シアトルで働く日本人プログラマの日記です。

去年の末に娘が生まれ、今年の頭に社内でチームを移り、忙しい時期を重ねてしまったなと思ったら、さらに三月に父が突然に亡くなってしまい、慌ただしい一年だった。

グリーンカードがとれたのはよかった。法律上は転職できる身分になり、入国の手続きも半自動化されたし、その際に面接に応じる人もこころなしか優しくなった気がする。

来年にむけて

「会社に歩いて通勤し、車を持たず、たまに日本人の友達に会う」という今の生活は、ほとんど完成してしまい、子供ができたのも守りの傾向に拍車をかけている。来年はもう少しリスクをとって、アメリカらしい生活をこころがけたい。

ブログや Twitter もしばらくは英語で書いてみるつもり。

インターネットに何かを書くというのは、世界のどこかにいる誰かに届くかもしれない、という期待が少しだけある行為で、それは Facebook と LINE の時代の「インターネット」ではないし1、読者の姿がはっきりしていくにつれ忘れられてしまうことなんだけど、私はそういう、会ったこともない人に向けて、言葉を尽くして書かれたような文章が好きだったりする。

逆に、Firefox を火狐と書いてみるのとか、サイバーエージェントを「渋谷の緑色の会社」と書いてみるのとか、そういうコミュニティ内の言い換えには、想定された読者に対する「あなたもこれはわかりますよね」みたいな目配せと仲間意識の強要を感じてしまい、わかっていても目をそらしたくなる。われながら心がせまい。

何かを英語で書くのは「世界のどこかにいる誰かに届くかもしれない」という期待の延長線上にある、と自分が書いたソフトウェアのダウンロードページをせっせと英語で書いていた昔には思っていたはずで、そういう初心は忘れずにいたい。


  1. インフラでしかないインターネットに何らかの価値判断の傾向を見いだすのは、もう理解されないことなのかもしれない。「インターネットらしさ」は「電気らしさ」くらい無意味な言葉になるんだろうか。 [return]