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yomoyomo さんの Web3の「魂」は何なのか? を読んだ。私は、Web3 には批判的で、Web3 は Web 2.0 より有意に「悪い」と思っているので

ただ、ワタシ自身はWeb3というコンセプトを実は楽観的に見ています。なぜかというと、結局、言葉は成功についてくると考えるからです。

つまり、Web3というコンセプトに厳密に従ったサービスだから成功するのではなく、今後成功を収めたサービスが自然とWeb3の代表格と見なされると予測するわけです。

といってしまうのは、ちょっと「どっちもどっち論」が過ぎると思った。

確かに Web 2.0 にも明確な定義は無かった。Tim O’Reilly の What Is Web 2.0 (2005) の冒頭には、

But there’s still a huge amount of disagreement about just what Web 2.0 means, with some people decrying it as a meaningless marketing buzzword, and others accepting it as the new conventional wisdom.

という一文があり、そこからリンクをたどると Tim Bray が、

I just wanted to say how much I’ve come to dislike this “Web 2.0” faux-meme. It’s not only vacuous marketing hype, it can’t possibly be right.

と書いている

一方で、Web3 is going just great にあげられている色々を眺めると「Web 2.0 はここまで酷くなかったよね」とも思う。UST のような担保なしのステーブルコインで専門知識のない人々がお金を失っているのをみると、Web 2.0 の続きというよりは、サブプライムローン危機の続き、といった感がある。

こういう状況をまえに、私も含めたコンピュータに明るい人々が「まあ、Web 2.0 にも同じ側面が…」といってしまうのは、サブプライムローンを含んだ証券の類を適切に評価できなかった、格付け機関の人々と同じなのではないか。もちろん、我々はテクノロジーの格付けを専業でやっているわけではないけれど。

Letter in Support of Responsible Fintech Policy

実は、yomoyomo さんの記事と同じ6月1日に、アメリカでは、Letter in Support of Responsible Fintech Policy という国会議員向けのオープンレターが公開されている。

Today, we write to you urging you to take a critical, skeptical approach toward industry claims that crypto-assets (sometimes called cryptocurrencies, crypto tokens, or web3) are an innovative technology that is unreservedly good. We urge you to resist pressure from digital asset industry financiers, lobbyists, and boosters to create a regulatory safe haven for these risky, flawed, and unproven digital financial instruments and to instead take an approach that protects the public interest and ensures technology is deployed in genuine service to the needs of ordinary citizens.

起草しているのは、”Web3 is going to great” を運営する Molly White に、書籍 “Attack of the 50 Foot Blockchain” の著者で、同名のウェブサイトを運営する David Gerard, 「すべての暗号通貨は焼け死ぬべし」の Nicholas Weaver といった、おなじみの Web3 懐疑派の人々に加えて、

  • XML の Tim Bray
  • IBM Fellow で UML の Grady Booch
  • SF 作家の Cory Doctorow
  • Xamarin の Miguel de Icaza
  • 暗号研究者の Bruce Schneier
  • Netscape の Jamie Zawinski

と、ここ10年インターネットよりのコンピュータ業界に関わっていた人なら名前を聞いたことはあるであろう、そうそうたる面子。私は、末尾の参考文献までは読みきれていないけれど、Web3 批判としてもよくまとまっている。

ゴールそのものにまつわる問題

Web3 が実現するとうたわれているものには「それブロックチェーンでできなくない?」と別に「それできたとして本当にうれしいの?」というものがある。これについては、哲学とか法学とか、いわゆる文系学問の方面からも批判されるべきだと思う。

例えば、ハートランド構想を起案者自体が語る、僕たちは「クソどうでもいい仕事」を根絶できるの、

ハートランドの具体的な「政策」については、これから参加者とともに議論を重ねていくべきだと思いますが、たとえば、ハートランド国民には毎月一定額の「ハート」を与えるというベーシック・インカムなどがありえます。人がやってくれたことに対して「ありがとう」という代わりに、自分がもらった「ハート」を贈るというわけです。

を読んで、私は、山形浩生の『なめらかな社会とその敵』評 (2013) を思いだしていた。

たとえば本書の提案する新通貨システムは、社会貢献度を数値的に算出する。それは人間の平等性の根拠を破壊しかねない。通貨取引では確かに関係性は表現されない。でもそれだからこそ、人々は金銭取引外の価値を認め、人の価値はお金ではない、だれでも見えないところで社会に貢献しているんだからという平等の理念が成立する。ところがこの仕組みで社会貢献度が数値的に見えてしまったら? それは人々の実質的な等級付けに直結しかねない。むろん、それに対して「いやこの社会貢献度は目安であってそれ以外の部分もあるんだから人は平等です」と強弁することはできる。だが説得力があるだろうか。ぼくは社会がその誘惑に勝てるとは思わないのだ。

人々の「ありがとう」が数値化されるのは、本当に良い社会なのだろうか。

あるいは、Ethereum の Introduction to Web3 にある検閲への耐性。確かにパブリックなブロックチェーンに記録された情報を検閲するのは難しい。広義の、公権力だけでなく私企業によって行われるモデレーションも「検閲」に含めたときに、それがアメリカ的、あるいはリベラル的な価値観によりすぎである、という批判もできるだろう。

ただ、ブロックチェーンから消せないのは、政府や企業によって都合の悪い情報だけではなく、誹謗中傷やリベンジポルノでもある。ロシアのような国では、政府自身が身分を明かさずに操作しているアカウントもあり、Twitter ではそういうアカウントを削除してもいる

EU の「忘れられる権利」のような、個人が自分自身のデータをきちんと削除したいという要求と、いわゆるフェイクニュースが組織的に拡散されているという現状をまえに、追記のみのパブリックなデータベースを使った「検閲」というか削除一般ができないプラットフォームというのは、極めて用途が限定されてしまうと思う。